熊野那智大社に行くその7(那智勝浦)
そして鮮やかな朱塗りの那智大社の右隣には青岸渡寺があります。
天台宗のお寺です。
このお寺は那智大社とは違って木の肌そのままに古めかしく厳つくて、とっても雰囲気あります。
いいです、この荒々しい雰囲気。
すごいかっこいい。
朱塗りの神社の美しさもいいですが、この年月を経た木の感じもいいです。
もっと見ていたかったのですが、私が熊野の古道で写真を撮りまくっていたために時間が押してしまい、なでるように過ぎてしまいました。
この寺から下ると椿の木が一本植えられています。
この椿は1本なのに白や赤の色とりどりの花が咲き乱れることから五色椿と呼ばれているそうです。
行った日はちょうど花が咲いておりまして、このようにいろんな色が一緒に咲く不思議な写真が撮れました。
熊野那智大社に行くその6(那智勝浦)
うっかり更新を忘れてひと月超えてしまいしました。
すいません。
ええっと・・・そうそう、熊野の那智大社に行ったお話です。
那智大社にたどり着いてお参りをしまして、そのまま右手に入っていきますと、このような樹齢800年の樟の木(くすのき)があります。
この木は下が空洞になっていまして、入ることができます。お金要りますが。
くぐって、それだけです(笑
もしかすると樟の木には精霊が宿っていて触ると話しかけられて・・・なのかもしれませんが、私は霊感とかのたぐいが一切ないので何にも感ずることができません。
看板は樟ですが、楠と同意なんですかね?
wikiでは「各部全体から樟脳の香りがする。樟脳とはすなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、防虫剤や医薬品等に使用される。カンフル注射のカンフルはこの樟脳を指しており、クスノキが英語でcamphor teeやcamphorwoodと呼ばれるように“camphora”という種名にもなっている。」とあるので、いい匂いがしたのかもしれません、私はそれもわからなかった(笑
樹齢800年なら芽吹いたのは1200年頃、時は鎌倉幕府が生まれる頃。
武士の政権が生まれる頃に那智の山奥でひっそりとこの木は産まれていたのですね、そう思ったら命の重みにぐっときますね。
熊野那智大社に行くその5(那智勝浦)
さて、階段を上がりきって熊野那智大社に到着しました。
道すがらの写真はなかなか人の映り込みがあってサイトにアップするのが難しく、いきなりこの写真です。
右の鳥居から上がってきました。
奥に大社があります。
左奥の黒い円柱のものがヤタガラスと書かれたものです。
日本サッカーのシンボルとして有名ですよね。
ヤタガラスと検索して一番に「モンスト」の記事が来ましたが・・・(;´・ω・)
神武天皇の道案内をした三本足のカラスなので、神話の時代です。
ヤタガラスが道案内とか動物が道案内したという話はちらほら聞くのですが、そういうのってどうして現代にないんだろう・・・
近い?のはもうなくなられた比叡山天台宗の大阿闍梨、酒井雄哉大阿闍梨が千日回峰で毎日比叡山を歩くときに白い犬がついていったのとか・・・かな?
その犬の子供も母犬にならってついてくるようになったとか。
映像見ましたけど後からきたり先導するように前を行ったり、なんだかじーんとくるものでした。
現代では私のように大門坂入り口から歩いてきてもよいし、もっと先の社務所のあたりや滝の入り口のあたりまで舗装道路が続いているので車で来ることもできます。
それでも石畳はありますが・・・
ちなみに熊野には梛(なぎ)という木があります。
熊野速玉大社(ここじゃない新宮市のほうにある)にはご神木があるのですが、この木の葉は葉脈が縦になっているので横に破れることはない、ということで縁結びの印になっているそうです。
ただし、神社内で採取することはダメですので欲しい場合は採取してもいいところを確認してからにしましょう。
売ってたりするのかな?そこは確認してないです。
私が行った日は天気がよくて本当に助かりました。
前日か前々日だったか、雨が降って川の水位が上がってしまったので、瀧の奥に行く一行は途中で断念して戻ってきていました。ここまで来て行けないのは残念な話です。
でも安全第一ですからね。
熊野那智大社に行くその4(那智勝浦)
熊野古道の道の写真はネットにいっぱい出てると思うのでいいかな。
道の途中で滝が見えます。
私はガイドの方についていただいたので要所要所を外すことなく見ることができましたが、単独で行かれる場合は時々右を気にしておきましょう。
昔の貴族たちもここで滝の存在を初めて認識したのかなぁ・・・(遠い目)
貴族といえば熊野詣では後鳥羽上皇とか後白河上皇が頻繁に来てたとか。
おお、後鳥羽上皇といえば貴族の時代から武士の時代の転換期にいた日本史の大物。
wikiによると壇ノ浦の戦いで海に消えた幼い安徳天皇の次の天皇。
この安徳天皇が天皇の三種の神器のひとつ、宝剣をもったままだったもんだから、天皇の儀式のときに三種の神器がそろわなくなって、「治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある」(wiki)ということで乱を起こして武士に鎮圧されて隠岐に流されてしまったということなんですね。
貴族なんて儀式とかがすべてだったでしょうに、それはもう大変な劣等感だったでしよう。
そんな歴史に思いをはせながら、(いやすいません、後で知りました)古道を登りきると舗装された道に出て、細い階段を上がって少し進んでまた階段。
その階段の途中に郵便局があって、最近見かけない円柱型のポストがありました。
そしてこの道からも滝が見えました。
このあたりに住んでいる人たちは当然、この景色が当たり前なんですが、観光目的の私にはこの景色すら「おおおーっ、滝ーー」なわけなので、写真撮っておきました。
そして歴史に思いをはせ(以下略)
ちなみにこの写真に写っている道は瀧に向かう道ではありません。生活道路です。
この背面に茶店があるので一服休憩もできます。
お土産物店もあるので買い物もできます。
階段をさらに登っていくといよいよ那智大社に到着となります。
はぁー、汗かいた。
熊野那智大社に行くその3(那智勝浦)
それでは熊楠が泊まった旅館跡を過ぎていよいよ熊野古道に入っていきましょう。
まずは夫婦杉がお出迎え。
ここを逆から見るとこんな感じです。
なかなか立派でしょう。
私が行った日は晴れたのでよかったのですが前の日あたりに雨が降りまして、道は若干湿っておりました。
高い木が道を囲んでいるので日の光もちょっと弱め。
この写真は写ってしまった他人様のプライベート保護のためにこちらに向いた顔を白く塗っています。あしからず。
この道の先は熊野古道のポスターでも見かけるようなザ・熊野古道って感じの道です。
写真をとるにはなかなかいい雰囲気なのですが、絶えず誰かが歩いているので道だけを写真に収めるのはなかなか難しいです。
たぶん普段より人は少ない方なんじゃないのかと思うのですが・・・
この道沿いにはこんなものがあります。
「多富気王子」
えっ(;゚Д゚)王子様が石になってしまったの?んなわけありません。
昔々12~13世紀にかけて貴族や天皇が熊野詣でをするときに急きょ立てた神社の跡なのです。参拝途中で参拝者の守護を祈願する目的で建てたそうです。
それが熊野古道には100ちょっとあります。(後から増えたりしたとかで)
旅に出て熊野那智大社まで何にもないと飽きるから、途中ランドマーク的に建てたとかだったりして。だって急きょ建てたとか、神様も急に家増えたら大変でしょうに。
特にこの多富気王子は京都から熊野那智大社に向かう道に点在する王子(九十九王子)の最終点。ここから先はもう那智大社しかありませんよーつて具合です。
しかし・・・(;´・ω・)昔熊野古道の別のところにちょっとだけ行ったときは王子って単なる貴族が休んだ休憩場って聞いたような気がしてたのです。
その時「えー、たかが休憩所に王子なんて大層な名前つけちゃってー」「なんか王子が仁王立ちしてそうじゃなーい」と思った記憶があります。
今回は「100も〇〇王子なんて名前ついてるなんて、最近刀剣乱舞とか戦国武将とか、日本の時代モノが流行っているから全部イケメン貴族に擬人化する人でるんじゃない?」と思いました。
100人分の書き分けって、大変だろうな・・・いや、私はそっち方面はよくわかりませんのでこれ以上は話が膨らみません。
しかし、道が石畳ではあるんですがボコボコで歩きにくかったです。
なんども足首がぐきっとなりました。
この先ちょっとだけ舗装道路ありますが滝の手前もボコボコの石段なので、来る人はなめてかからずに運動靴のような歩きやすいもので来た方がいいと思います。
熊野那智大社に行くその2(那智勝浦)
さて、バスに乗ってやってきた熊野古道入り口。
「熊野古道」と「大門坂」と書かれた石碑がありました。
そこまでが前回の記事。
この左の道を行くとその先に階段があって鳥居があります。
この階段を上がった左手に家があります。
そこは南方熊楠が3年間も滞在した旅館跡です。
跡といっても建物があります。
この南方熊楠は知る人ぞ知る人物。
「年金」じゃなかった「粘菌」の研究やら生物の研究やら民俗学やら実績を残した人で、【18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたもの】(wiki)でした。
人の家で100冊の本を読んでそれを家に帰ってから記憶を頼りに書き写したとか、20年前に会った人と会った時の状況とか一緒にいた人のコトとかを事細かに覚えていたりと記憶力がすごかったり。
反芻胃の持ち主で自由自在に食べたものを吐けたとか。(反芻胃は牛が持ってますよね)
うらやましいのはwikiによると【語学にはきわめて堪能で、19の言語を操ったといわれる。語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。】
こんなんで外国語を覚えられたら楽ですよね・・・こんな能力があったら英語の試験が楽勝だったのに・・・
しかしこんな熊楠にも欠点があって、ものすごい癇癪もち(要はものすごく怒りんぼう)で、多汗症だからってふんどし一枚で山に入って女性をびっくりさせたり、定職につかず弟に援助してもらわないといけなかったりと、まあ完璧超人ってわけでもありませんでした。
そんな熊楠が3年も滞在した旅館(今はやってません)。
旅館に滞在って、小説家でよくありますけど(川端康成とか志賀直哉とか)そんなことさせてくれるパトロンか出版社でもいたんでしょうかね。熊楠の場合はこの時誰が面倒見てたんだろう、やっぱ弟だったのかな。能力はめちゃめちゃ高くても無心ばっかされたら弟でも切れますわね、やはり途中で絶縁状態に。
ちなみに熊楠の実家は酒造会社で(弟が継いだ)「世界一統」という社名で今も日本酒を作り続けています。
と、この旅館(今はやってません)を過ぎると「下馬」と書かれた石碑があります。
これが「下馬評」の語源。
ここで馬を降りて中に入っていった主人を待つ間に下僕たちがあれこれ噂話をしていたので下馬での評価、下馬評となったそうです。
「下馬評」は、熊野古道を一緒に歩いていろいろ説明してくださったガイドの方の説明です。観光地ではガイドの方がよく案内人として活躍されてますよね。こういう人を見ると「神の使い」を思い出します。
例えば今回の熊野那智大社にはサッカーのシンボルマークでおなじみのヤタガラスが祀られています。ヤタガラスは神様の指示で神武天皇の道案内をしたカラスです。こうやって現代でもガイドの方の尊い善行の道案内のおかげで取りこぼしなく熊野を堪能できるのだなと思うと、ほんとうにありがたいことだと思います。名前は晒せませんのでSさん、ありがとうございました。
熊野那智大社に行くその1(那智勝浦)
熊野、和歌山、那智の大滝。
熊野那智大社の別宮、那智の滝は飛瀧神社の御神体として古くから信仰を集めてきました。
ここって和歌山の南の端辺りで行きにくいのです(;´・ω・)
まずは出発点の紀伊勝浦駅にて。
新大阪や紀伊田辺からここに行く電車が出ております。
この駅の向かいはこんな感じ。
なかなかの閑散ぶり。
しかし観光地なので駅前にタクシー事務所があってタクシーはつかまりやすいし、那智の大滝の入り口まではバスに乗っていくことができます。
あと、やはり観光地なのでお店は結構開いてます。
マグロ丼がとても多いです。
食事処が結構多いので目移りするかもしれません。
食事処は結構混んでました。時間のない時は気を付けた方がいいです。
私は目指した店が混みすぎて時間がなくてやめました。
ガイド的な小冊子も置かれていますので、それを見ながらいろいろ迷うのも楽しみです。
さて、ここからバスに乗って・・・20分くらいかな、那智の大滝に行くための道の入り口の駐車場に到着します。
自家用車もまあまあ止められるくらいの広さはあります。
周りは田んぼと山しかないw
とてものどかでいい感じです。
このバスの途中で「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)というお寺の横を通り過ぎます。
バスの放送にあったのですが、ここの僧侶には小さな舟に一か月分ほどの食料を積み、
外に出られないように扉を釘付けにして閉じ込められ、伴舟にひかれ、経文を唱えながら補陀落をめざして海へ出て行くという、恐ろしい儀式があったとか。
熊野灘はかつて「補陀落の海」と呼ばれていたそうで、補陀落の海を渡る、補陀落渡海なわけです。
もちろん生きて帰れぬ死出の旅なわけです。
平成たぬき合戦ぽんぽこにも海に出ていったタヌキがいましたが。
これを嫌がった僧侶を無理やり舟に閉じ込めて無理やり出したこともあったとか。
無茶苦茶しますね(;´・ω・)
「最も古い渡海は868年、補陀落山寺の僧、慶竜上人によるもので、渡海は18世紀初頭まで続けられました。 」そうですし、wikiによると20回ほど実施されたようです。
他の岬なんかでも行われたらしいです。
なんにせよ恐ろしい儀式です。
もちろん今はそんなことしてません。あたりまえか。
そんな昔に思いをはせつつバスを降りてついたのがこの熊野古道入り口。
ようやくスタート地点です。
しかし写真のアップが大変です。
記事が瀧にたどりつくのがいつになるやら・・・