熊野那智大社に行くその5(那智勝浦)
さて、階段を上がりきって熊野那智大社に到着しました。
道すがらの写真はなかなか人の映り込みがあってサイトにアップするのが難しく、いきなりこの写真です。
右の鳥居から上がってきました。
奥に大社があります。
左奥の黒い円柱のものがヤタガラスと書かれたものです。
日本サッカーのシンボルとして有名ですよね。
ヤタガラスと検索して一番に「モンスト」の記事が来ましたが・・・(;´・ω・)
神武天皇の道案内をした三本足のカラスなので、神話の時代です。
ヤタガラスが道案内とか動物が道案内したという話はちらほら聞くのですが、そういうのってどうして現代にないんだろう・・・
近い?のはもうなくなられた比叡山天台宗の大阿闍梨、酒井雄哉大阿闍梨が千日回峰で毎日比叡山を歩くときに白い犬がついていったのとか・・・かな?
その犬の子供も母犬にならってついてくるようになったとか。
映像見ましたけど後からきたり先導するように前を行ったり、なんだかじーんとくるものでした。
現代では私のように大門坂入り口から歩いてきてもよいし、もっと先の社務所のあたりや滝の入り口のあたりまで舗装道路が続いているので車で来ることもできます。
それでも石畳はありますが・・・
ちなみに熊野には梛(なぎ)という木があります。
熊野速玉大社(ここじゃない新宮市のほうにある)にはご神木があるのですが、この木の葉は葉脈が縦になっているので横に破れることはない、ということで縁結びの印になっているそうです。
ただし、神社内で採取することはダメですので欲しい場合は採取してもいいところを確認してからにしましょう。
売ってたりするのかな?そこは確認してないです。
私が行った日は天気がよくて本当に助かりました。
前日か前々日だったか、雨が降って川の水位が上がってしまったので、瀧の奥に行く一行は途中で断念して戻ってきていました。ここまで来て行けないのは残念な話です。
でも安全第一ですからね。
熊野那智大社に行くその4(那智勝浦)
熊野古道の道の写真はネットにいっぱい出てると思うのでいいかな。
道の途中で滝が見えます。
私はガイドの方についていただいたので要所要所を外すことなく見ることができましたが、単独で行かれる場合は時々右を気にしておきましょう。
昔の貴族たちもここで滝の存在を初めて認識したのかなぁ・・・(遠い目)
貴族といえば熊野詣では後鳥羽上皇とか後白河上皇が頻繁に来てたとか。
おお、後鳥羽上皇といえば貴族の時代から武士の時代の転換期にいた日本史の大物。
wikiによると壇ノ浦の戦いで海に消えた幼い安徳天皇の次の天皇。
この安徳天皇が天皇の三種の神器のひとつ、宝剣をもったままだったもんだから、天皇の儀式のときに三種の神器がそろわなくなって、「治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある」(wiki)ということで乱を起こして武士に鎮圧されて隠岐に流されてしまったということなんですね。
貴族なんて儀式とかがすべてだったでしょうに、それはもう大変な劣等感だったでしよう。
そんな歴史に思いをはせながら、(いやすいません、後で知りました)古道を登りきると舗装された道に出て、細い階段を上がって少し進んでまた階段。
その階段の途中に郵便局があって、最近見かけない円柱型のポストがありました。
そしてこの道からも滝が見えました。
このあたりに住んでいる人たちは当然、この景色が当たり前なんですが、観光目的の私にはこの景色すら「おおおーっ、滝ーー」なわけなので、写真撮っておきました。
そして歴史に思いをはせ(以下略)
ちなみにこの写真に写っている道は瀧に向かう道ではありません。生活道路です。
この背面に茶店があるので一服休憩もできます。
お土産物店もあるので買い物もできます。
階段をさらに登っていくといよいよ那智大社に到着となります。
はぁー、汗かいた。
熊野那智大社に行くその3(那智勝浦)
それでは熊楠が泊まった旅館跡を過ぎていよいよ熊野古道に入っていきましょう。
まずは夫婦杉がお出迎え。
ここを逆から見るとこんな感じです。
なかなか立派でしょう。
私が行った日は晴れたのでよかったのですが前の日あたりに雨が降りまして、道は若干湿っておりました。
高い木が道を囲んでいるので日の光もちょっと弱め。
この写真は写ってしまった他人様のプライベート保護のためにこちらに向いた顔を白く塗っています。あしからず。
この道の先は熊野古道のポスターでも見かけるようなザ・熊野古道って感じの道です。
写真をとるにはなかなかいい雰囲気なのですが、絶えず誰かが歩いているので道だけを写真に収めるのはなかなか難しいです。
たぶん普段より人は少ない方なんじゃないのかと思うのですが・・・
この道沿いにはこんなものがあります。
「多富気王子」
えっ(;゚Д゚)王子様が石になってしまったの?んなわけありません。
昔々12~13世紀にかけて貴族や天皇が熊野詣でをするときに急きょ立てた神社の跡なのです。参拝途中で参拝者の守護を祈願する目的で建てたそうです。
それが熊野古道には100ちょっとあります。(後から増えたりしたとかで)
旅に出て熊野那智大社まで何にもないと飽きるから、途中ランドマーク的に建てたとかだったりして。だって急きょ建てたとか、神様も急に家増えたら大変でしょうに。
特にこの多富気王子は京都から熊野那智大社に向かう道に点在する王子(九十九王子)の最終点。ここから先はもう那智大社しかありませんよーつて具合です。
しかし・・・(;´・ω・)昔熊野古道の別のところにちょっとだけ行ったときは王子って単なる貴族が休んだ休憩場って聞いたような気がしてたのです。
その時「えー、たかが休憩所に王子なんて大層な名前つけちゃってー」「なんか王子が仁王立ちしてそうじゃなーい」と思った記憶があります。
今回は「100も〇〇王子なんて名前ついてるなんて、最近刀剣乱舞とか戦国武将とか、日本の時代モノが流行っているから全部イケメン貴族に擬人化する人でるんじゃない?」と思いました。
100人分の書き分けって、大変だろうな・・・いや、私はそっち方面はよくわかりませんのでこれ以上は話が膨らみません。
しかし、道が石畳ではあるんですがボコボコで歩きにくかったです。
なんども足首がぐきっとなりました。
この先ちょっとだけ舗装道路ありますが滝の手前もボコボコの石段なので、来る人はなめてかからずに運動靴のような歩きやすいもので来た方がいいと思います。
熊野那智大社に行くその2(那智勝浦)
さて、バスに乗ってやってきた熊野古道入り口。
「熊野古道」と「大門坂」と書かれた石碑がありました。
そこまでが前回の記事。
この左の道を行くとその先に階段があって鳥居があります。
この階段を上がった左手に家があります。
そこは南方熊楠が3年間も滞在した旅館跡です。
跡といっても建物があります。
この南方熊楠は知る人ぞ知る人物。
「年金」じゃなかった「粘菌」の研究やら生物の研究やら民俗学やら実績を残した人で、【18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたもの】(wiki)でした。
人の家で100冊の本を読んでそれを家に帰ってから記憶を頼りに書き写したとか、20年前に会った人と会った時の状況とか一緒にいた人のコトとかを事細かに覚えていたりと記憶力がすごかったり。
反芻胃の持ち主で自由自在に食べたものを吐けたとか。(反芻胃は牛が持ってますよね)
うらやましいのはwikiによると【語学にはきわめて堪能で、19の言語を操ったといわれる。語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。】
こんなんで外国語を覚えられたら楽ですよね・・・こんな能力があったら英語の試験が楽勝だったのに・・・
しかしこんな熊楠にも欠点があって、ものすごい癇癪もち(要はものすごく怒りんぼう)で、多汗症だからってふんどし一枚で山に入って女性をびっくりさせたり、定職につかず弟に援助してもらわないといけなかったりと、まあ完璧超人ってわけでもありませんでした。
そんな熊楠が3年も滞在した旅館(今はやってません)。
旅館に滞在って、小説家でよくありますけど(川端康成とか志賀直哉とか)そんなことさせてくれるパトロンか出版社でもいたんでしょうかね。熊楠の場合はこの時誰が面倒見てたんだろう、やっぱ弟だったのかな。能力はめちゃめちゃ高くても無心ばっかされたら弟でも切れますわね、やはり途中で絶縁状態に。
ちなみに熊楠の実家は酒造会社で(弟が継いだ)「世界一統」という社名で今も日本酒を作り続けています。
と、この旅館(今はやってません)を過ぎると「下馬」と書かれた石碑があります。
これが「下馬評」の語源。
ここで馬を降りて中に入っていった主人を待つ間に下僕たちがあれこれ噂話をしていたので下馬での評価、下馬評となったそうです。
「下馬評」は、熊野古道を一緒に歩いていろいろ説明してくださったガイドの方の説明です。観光地ではガイドの方がよく案内人として活躍されてますよね。こういう人を見ると「神の使い」を思い出します。
例えば今回の熊野那智大社にはサッカーのシンボルマークでおなじみのヤタガラスが祀られています。ヤタガラスは神様の指示で神武天皇の道案内をしたカラスです。こうやって現代でもガイドの方の尊い善行の道案内のおかげで取りこぼしなく熊野を堪能できるのだなと思うと、ほんとうにありがたいことだと思います。名前は晒せませんのでSさん、ありがとうございました。
熊野那智大社に行くその1(那智勝浦)
熊野、和歌山、那智の大滝。
熊野那智大社の別宮、那智の滝は飛瀧神社の御神体として古くから信仰を集めてきました。
ここって和歌山の南の端辺りで行きにくいのです(;´・ω・)
まずは出発点の紀伊勝浦駅にて。
新大阪や紀伊田辺からここに行く電車が出ております。
この駅の向かいはこんな感じ。
なかなかの閑散ぶり。
しかし観光地なので駅前にタクシー事務所があってタクシーはつかまりやすいし、那智の大滝の入り口まではバスに乗っていくことができます。
あと、やはり観光地なのでお店は結構開いてます。
マグロ丼がとても多いです。
食事処が結構多いので目移りするかもしれません。
食事処は結構混んでました。時間のない時は気を付けた方がいいです。
私は目指した店が混みすぎて時間がなくてやめました。
ガイド的な小冊子も置かれていますので、それを見ながらいろいろ迷うのも楽しみです。
さて、ここからバスに乗って・・・20分くらいかな、那智の大滝に行くための道の入り口の駐車場に到着します。
自家用車もまあまあ止められるくらいの広さはあります。
周りは田んぼと山しかないw
とてものどかでいい感じです。
このバスの途中で「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)というお寺の横を通り過ぎます。
バスの放送にあったのですが、ここの僧侶には小さな舟に一か月分ほどの食料を積み、
外に出られないように扉を釘付けにして閉じ込められ、伴舟にひかれ、経文を唱えながら補陀落をめざして海へ出て行くという、恐ろしい儀式があったとか。
熊野灘はかつて「補陀落の海」と呼ばれていたそうで、補陀落の海を渡る、補陀落渡海なわけです。
もちろん生きて帰れぬ死出の旅なわけです。
平成たぬき合戦ぽんぽこにも海に出ていったタヌキがいましたが。
これを嫌がった僧侶を無理やり舟に閉じ込めて無理やり出したこともあったとか。
無茶苦茶しますね(;´・ω・)
「最も古い渡海は868年、補陀落山寺の僧、慶竜上人によるもので、渡海は18世紀初頭まで続けられました。 」そうですし、wikiによると20回ほど実施されたようです。
他の岬なんかでも行われたらしいです。
なんにせよ恐ろしい儀式です。
もちろん今はそんなことしてません。あたりまえか。
そんな昔に思いをはせつつバスを降りてついたのがこの熊野古道入り口。
ようやくスタート地点です。
しかし写真のアップが大変です。
記事が瀧にたどりつくのがいつになるやら・・・
三仏寺・投入堂(三朝町)
役行者という修験道の開祖がお堂を小さく手のひらサイズにしてうりゃあああっと投入れたのが投入堂。
そんなことができたらなんか色々応用効きそうな気がするんですよ・・・ロストテクノロジーじゃないですか。
実際のところ役小角が活躍したとされる時代と投入堂の製作されたとされる年代には違いがあって関係ないだろうってことみたいです。
三朝町といえば日本で高濃度のラドンを含んだ放射能温泉で有名な三朝温泉のあるところです。
なので岡山大学の温泉療法を実践する施設があります。
昔寄った時にはひなびた何もない温泉地だったように思いましたが今回行った時には観光客を意識した建物が建っていました。
ここから車で走ること・・・うーん、時間計ってない(;´・ω・)スイマセン
走らせると三徳山に到着します。
駐車場がありますのでそこに車を止めることができますしJR倉吉駅から路線バスに乗れば40分で到着します。
ここに入るには制限がありますので行こうと思っている人はちゃんと調べて準備してからにしてください。
スカートやヒールは以ての外、スパイクつきの靴も木の根を痛めるのでだめ、スニーカーもモノによってはだめ、入山時間も決まってるし冬もダメだし雨もダメ・・・
などなど書ききれないほど色々あります。
ちゃんと入山時に服装チェックされて、靴がだめなら草履を買うことになりますしあまり適さない服装だと入山拒否されます。
入山できない場合は道から投入堂を見ることができる場所がありますのでそこに行って遠くから眺めてください。
私は昔入山時間に間に合わず、これで済ませたことがあります。
まずはここで拝観料を払って入ります。ここは服装関係なく入れます。
売店でペットボトルを買うこともできます。
ここから階段を昇っていくと宝物殿があって、さらに行くと本堂があります。
本堂あけっぴろげです・・・
この先に入山するための事務所があります。ここで服装チェックされ、入山料を払い、入山手続きをします。
ここから先は体力がいるというか・・・崖を這い上って行ったり木の根をつたい上って行ったりするので怖いです。
ルートはこんな感じ。
木の根が登山ルートに入っているなんてびっくりします。
ところによっては木の根がつるつるになっていて、ああ、みんなここ持って登ったんだなとわかります。
投入堂行った人のブログを見ると大体載っている途中のお堂の写真と鐘の写真。
鐘はつけますしお堂は中には入れませんがへりのところを一周できます。
ここはめっちゃくちゃ怖いです。柵がありません。
ふざけて突き落とそうとかやっちゃいけません、ケガで済まないです。
そして色んなお堂を横目に見ながら辿り着くのが投入堂。
投入堂自体には入れません、行けるのはここまでです。
昔は投入堂には入れましたが滑落して死者が出たので入れなくなったそうです。
ここに来るまでの道のりですらキツく、遭難者がたまに出るくらいですから。
確か宝物殿にはその昔の誰でも投入堂に入れた時代の写真があったように思います・・・記憶が確かじゃないけど。
しかし投入堂を見たときは感動しました。
道のりのきつさもありましたがこんな山奥にただ在り続けていたなんて・・・(゚Д゚;)
いくらでも眺めていられるような感じです。
よくよく見ると修復の跡があります。木が明らかに新しい部分があります。
柱には朱、壁には白が塗られていたらしいので、そんな投入堂もすばらしいと思いますが、この木むき出しの簡素な投入堂も美しいです。
中に入ってみたかったなぁ・・・帰ってからネットで調べたら写真集に載っていたのをアップしていた人がいまして、元々安置されていた仏像は全部宝物殿に置いたのでからっぽでした。
今新たに見てみたいと探したけど見つかりませんでした・・・(´・ω・`)
降りてきて宝物殿も行ったんですが、仏像なんて貸し出し中ばっかりで半分くらいいなかったです。
出張の多いビジネスマンか!
しかし行けば感動間違いなしのお寺でした。
東福寺・通天橋(京都市)
東福寺(とうふくじ)
こちらは京都東山区本町15丁目のお寺です。
東福寺で検索すると予測検索で 東福寺 ランチ が真っ先に来るのが笑えます。
アクセスよりも気になるのか・・・(´・ω・`)気持ちわかります。
東福寺でピンと来ない人もコーヒーのBOSSでタモリさんと山村紅葉さんが出たCMで紅葉美しい橋と言えばああ、とわかる人も多いのではないかと。
ここは臨済宗東福寺派の大本山、禅寺でして、元々は924年に藤原忠平が建てた伽藍があり、この地に九条道家が建てた大寺院が東福寺で、その後たびたび焼失しています。
藤原忠平と言えば菅原道真と親交を持ち、平将門は家人として仕えていた時期もあるという歴史上の人物。
面白いのはwikiに書かれているこの話。
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醍醐天皇の頃、相工(人相占い師)が宮中に召された。
寛明太子(後の朱雀天皇)を見て「容貌美に過ぎたり」と判じた。
時平を見て「知恵が多すぎる」と判じた。
菅原道真を見て「才能が高すぎる」と判じ、皆全幅の者はなかった。
ところが、下座にあった忠平を見て、相工はこれを指さして「神識才貌、全てが良い。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人であろう」と絶賛(wiki)
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全てにおいて合格点な人だったようです。
私は前にも書きましたが若き菅原道真が主人公の「応天の門」という漫画を読んでいるので菅原道真と出てくるとおおっと思います。
そして知識がないのでおおっと思って終わりです。
それ以上広がりません(;´・ω・)
ただ、朱雀天皇は923年生まれで、菅原道真は903年に死んだことになってるから一緒には顔を見れない気もしますが・・・
まあ、東福寺にはあんまり関係ないか。建てた人じゃないし。
普通に街中を歩いていると規模の大きな寺があるようには思われないのですが、近づくにつれ急に山の中に入った感じになります。
さて、東福寺を横目に通天橋へ。
な、何しに来たんだ私は(゚д゚)!
東福寺自体には案内がないので普段は入れないようです。
HPを見ても通年で入れるのは通天橋、開山堂、東福寺本坊庭園とのこと。
なので来られた方は見た目に華やかな通天橋へみんな流れていきます。
拝観料400円(2016年現在)を払ってすぐのところに橋があります。
もちろん混雑していますが私が行ったのは閉館1時間前の夕方でしたのでましな方だったのかもしれません。
橋を渡り右手の坂を上ると閉山堂に入ります。
石庭と静かな佇まいの普門院があります。
軒下に腰を掛けられるところがありますのでそこに腰かけて庭を眺めている人がいます。そこに座って眺めるとこんな感じ。
趣のある場所です。
だだっ広くもなくうまく纏まっているのでこんなところでゆっくり瞑想できたらすがすがしい気持ちになれそうです。
通天橋が人気なので人のいない時間があるのかって話ですが・・・なさそう。
通天橋の前には歩き回れる庭園が広がっています。
ちょうど紅葉になる時期だったのでキレイでしたよ。
通天橋の上には本坊庭園があるのですが、ここには時間切れで入ることができませんでした。
もう少し時間が欲しかったですね、国宝の三門を見る時間がありませんでした。
ただ閉館間際だったこともあり閉まる間際には人のいない通天橋を見ることができました。